「ネロリ」の話
アロマテラピーのトリートメントが大好きな、美容に対してとても関心の高いA子さんは、美肌作用で有名な「ネロリ」の香りが苦手で、困っていました。
「ネロリ」というと聞きなれないかもしれません。
香料としては、世界の名だたる香水に使用されています。精油としては、保湿作用、皮膚再生作用、抗炎症作用、老化防止作用などがあり、お肌にうれしい成分が含まれているので、高級ブランドのスキンケア商品に使われています。
アロマテラピー的な角度で「ネロリ」とは
名前 ネロリ Neroli・学術名 Citrus aurantium・抽出部位 花・抽出方法 水蒸気蒸留法
フルーツとして一般的なオレンジ(ビターオレンジ)の花の精油です。
花を「ネロリ」と呼び、実や樹木は「ビターオレンジ」と呼ぶのが、一般的です。大変貴重で、繊細な花びらが大量に必要な上に、抽出に手間が掛かることから、精油の値段は高額になります。
また、精油を抽出する際に副産物として採れる水分は、「オレンジ・フローラルウオーター(芳香蒸留水)」などという名前で、アロマテラピー専門店で買うことが出来ます。精油とは成分が異なりますが、水溶性の有効成分がたくさん含まれるため、化粧水として使われることが多いようです。
さて、その「ネロリ」はどんな香りなのか?言葉だけで説明するのは難しいですし、筆者の主観ですが、爽やかさと甘さの両方を感じながら、グリーンっぽさも隠れているような印象です。
「ネロリ」の花、ビターオレンジの花は白くて小さくて、とても可憐な印象です。白い花を純潔の象徴とするヨーロッパの地域では、昔からネロリを花嫁のティアラやブーケに使ってきました。
そして、名前の由来については、16世紀のイタリア「ネロラ公国」の公妃マリー・アンヌ・ドュ・ラ・トレモワイユ(en:Marie-Anne de la Trémoille, princesse des Ursins)が非常に愛し、いつも衣類や身の回り香らせていたそうで、ネロリ姫と呼ばれていた彼女にちなんで、「ネロラ」、「ネロリ」と名付けらという説が有力です。
どうして「ネロリ」を苦手に感じるのか?
A子さんの希望もあり、あえて香りを嗅いでもらいつつ、どんな思いがあるのか?何か思いつくか?などと、話を聞いてみることにしました。
子供の頃、A子さんは地方にあるお祖母様のところ遊びに行ったそうです。お祖母様のお宅は、温暖な気候の地域で、きれいな海が臨める半島にあり、辺りにはたくさんのミカン畑があり、様々な柑橘類の栽培がされていたそうです。広々した畑は、子供たちの遊び場になっていたので、A子さんもいとこ達と一緒に駆け回っていたそうです。
穏やかにお祖母様の思い出を語っていたA子さんが、突然苦い顔になりました。更に話を進めて行くと、衝撃的な出来事を思い出しました。
ミカン畑で遊んでいたときに、アゲハ蝶の幼虫が木から落ちてきて、A子さんの顔や体に触れてしまった事件があったそうです。
写真や実物で、その姿をご覧になったことがあるでしょうか?配色はケバケバしく、ちょっとグロテスクで、毛虫などに比べると大きい体です。子供だったA子さんは、とにかく怖くて、気持ち悪くて、体が固まったように動けなくなり、大泣きしたそうです。そして、泣き声に気付いたお兄ちゃんに、おんぶしてもらってお祖母様の家まで帰ったそうです。
「ネロリ」の香りが漂う中で、今まで完全に忘れていた子供にはすごく怖かっただろうという出来事が浮き出てきました。そして、腑に落ちたように、「ああ、そうだ。あのミカン畑の香りだ。」と言いました。
季節は春だったそうです。調べたところ、ビターオレンジの花(ネロリ)の開花時期とアゲハ蝶の産卵の時期がピッタリとあてはまりました。なるほどと思いつつも、このトラウマはなかなか消えないのだろうなあと、A子さんと一緒に大笑いをしました。
本当に人の気持ちや体に影響を与えるものなのか?
どうして、香りを嗅ぎながら記憶を辿ったのか?という疑問をクリアにする前に、香りは本当に人の気持ちや体に影響を与えるものなのか?という点から説明をしなければなりません。
精油に限定した場合、「香りを嗅ぐ」時、脳と血流の2つの経路で体に作用します。
空気中に揮発した精油の分子は、鼻の粘膜の毛細血管に瞬間的に吸収されます。血流に乗り、あっという間に全身をかけ巡ります。皮膚に塗って血管に吸収された精油成分が、呼気に含まれて排出されるまでに必要な時間はどれくらいか?という実験では、だいたい1-5分後という結果が出ています。あまりの速さに驚きます。
そして、もう一つの経路は、香りを認識した瞬間、脳へダイレクトに信号として伝わる道です。モノが動くのでなく、信号は電気のようなものですから、これもすごい速さで、一瞬です。
香りの信号の刺激が伝わるのは、脳の「大脳辺縁系」というグループで「たくましく本能的に生きる」ための脳です。ここでは、好きか?嫌いか?良いか?悪いか?シンプルな感情の判断しかしません。また、記憶を担当する「海馬」やホルモン分泌に関わる「下垂体」も同じグループにあり、お互いに影響し合います。
脳の働きについて補足すると、動物が発達している「大脳辺縁系」という「たくましく本能的に生きる」脳のグループと、人類の発展に大きく関わる「大脳新皮質」という「高度で知的に生きる」脳のグループと、大きく2つに分けることができます。
A子さんのアゲハ蝶の出来事は、全く意識していなかったけれど、ミカン畑に漂っていた「ネロリ」の香りが恐怖の体験と感情と一緒に、記憶されていたのです。
大人になったA子さんは、「ネロリ」の香りをぼんやりと不快に感じていました。そして、じっくりと香りを嗅いだことで、閉まったことを忘れていた机の引き出しが、何かの拍子のポンと開くように、記憶の引き出しが無意識に開く体験をすることになったようです。
結局、どうしても「ネロリ」精油のボディートリートメントを受けたいと、A子さんの希望したので、ブレンド方法を提案しました。「パチュリ」※1の香りを好みましたので、「ネロリ」に少量をブレンドして使用することを薦めました。
あまり知られていませんが、精油はブレンドすることで、お互いの毒性を緩和したり、より有効な成分に変化したりする特性があります。また、ブレンドする精油の香りの強さや特徴を吟味することにより、香りの印象をがらりと変えることもできるのです。
「フランキンセンス」の話
B子さんは、とても感受性が高く、子供時代は大勢の中にいることがしんどいと感じることが多かったそうです。成長とともに自身の感受性を受け入れ、しっかりコントロール出来るようになりました。そして、閃きや感覚に基づいて、ヒーラーのお仕事をされています。
集中できるという理由で、仕事中にお香を焚いていましたが、火を使わず香りを漂わせることができる精油に興味を持ち、筆者に相談がありました。「精神を集中できる精油を教えてほしい」という希望でした。
集中力を高める作用で有名な「ローズマリー」を含めて、いくつかの精油を嗅いでもらったところ、「フランキンセンス」に強烈に反応しました。涙をぼろぼろと流して、しくしくと泣き始めたのです。B子さん自身も涙の理由がわからないけれど、喪失感と悲しみが溢れてきたということでした。
「フランキンセンス」精油のプロフィール
名前フランキンセンス(乳香)・学術名Boswellia carterii・抽出部位 樹脂・抽出方法 水蒸気蒸留法
有名な逸話として、キリスト誕生の際に東方の賢人が祝いの品として、乳香(フランキンセンス)、没薬(ミルラ)、黄金を贈ったという話があります。また、実際の発掘作業などによると、紀元前より儀式や祀りごとに使われていた記録があります。太古の昔から人類の歴史にも長く関わっている、とても神々しい植物です。
フランキンセンスの香りを嗅いで
少し落ち着いた頃B子さんが言うには、自身の過去の時代の記憶が蘇ったようで、大切な人と死別したことが悲しくて堪らなかったという話でした。私にはそういう能力がありませんが、いわゆる「第六感」や「霊感」のようなものを持っているB子さんだからでしょうか?「フランキンセンス」の香りは、はるか遠い昔のB子さんの記憶まで引き出してしまったようです。
「フランキンセンス」は、現代でも宗教儀式に使用され、瞑想や精神統一の為にお香や樹脂そのものを焚いて使います。一般的には精神を集中することに向いているのですが、反応をみて、B子さんの仕事中には向かない香りということがわかりました。香りに対する反応は、十人十色なのです。
いくつか嗅いだ精油の中で「ベルガモット」※2に対して、気持ちがスッキリと明るくなるという感想でしたので、仕事中に使う精油として提案しました。血流で体内に取り込んだ場合、消化促進作用、健胃作用などがありますの、嗅ぐだけでなく、沐浴法やトリートメント法もお薦めしました。
B子さんのお仕事は、他人の重くて消化しづらい内容の話を聞いて、一旦受け止めつつも、手放して流さなければならないそうです。その点でも「ベルガモット」は、B子さんの支えになりそうだと思います。
ちなみに、解剖生理学的な見解でも、脳についてまだまだわからない領域がほとんどだそうです。「第六感」「直感」「霊感」など、理屈で説明がつかない能力は、「大脳辺縁系」の働きではないかと言われています。
さて、A子さんやB子さんの体験は、精油の香りでしたが、脳への働きかけは、香水や精油の香りに限りません。身の回りには、様々な香り、匂いがあります。
例えば、
急な雨が降ってきて、乾いた道路や壁が濡れたことで、空気中にもわっと漂う蒸気は、少し埃っぽい独特な匂いがします。素敵な香りと思う人は、ほとんどいないようですが、「懐かしい」と肯定的にとらえて、「運動部の部室を思い出した」「放課後の渡り廊下を思い出した」など、ノスタルジックな気持ちになる人は割りと多いようです。きっと背景に楽しい気持ちがあるのでしょう。
このように、決して素敵な香りではないけれど、心を温かくする記憶を呼び起こすことは、結構あるものです。
春を待ちわびている頃、外を歩いていると木か花か?甘い香りがして、何の香りかはわからないのに桜の咲く風景が浮かび、入学式やお花見の楽しかった思い出が映像で次々と浮かぶような体験はないですか?
夏の夜に、近所の路地に漂っている蚊取り線香の香りで、夏祭りの思い出が蘇って、甘酸っぱい気持ちなったりしませんか?虫よけのスプレーの匂いを感じて、汗まみれになって遊び、楽しく過ごしていた夏休みの日々が浮かんできたことはありませんか?
通勤の途中、金木犀の香りに気付き、もう秋になったのだと感じた瞬間に、明るい光の中でワイワイと運動会で賑わう学校の校庭の風景を思い出したりしませんか?
冬の寒い日の自宅への帰り道、どこからか夕食の料理の美味しそうな香りに、ふんわりと子供時代の温かな食卓を思い出して、離れて暮らす家族を想い恋しくなったことはありませんか?
香りと記憶の関係は、とても不思議で、神秘的です。
体験したものがセットで、香りと風景や人物、感情などが無意識のうちに脳に刻まれるのです。香りに対しての好みや感想は人それぞれなのが当たり前です。先入観なく、自由に感じることが大切なのではないかと思います。
小さな子供には、素敵な思い出を残してあげたいと思うように、色々な香りを体験させてあげたいと思います。もちろん大人になっても、感覚を研ぎ澄まして、体験したことが「わたし色」の記憶となって脳に刻まれていくことは、とても豊かで幸せなことだと思います。
※1 名前 パチュリ・学名 Pogostemon patchouli・抽出部位 葉と枝・ 抽出方法 水蒸気蒸留法
※2 名前 ベルガモット・学名Citrus bergamia・抽出部位 果皮・抽出方法圧搾法